陸上人生 心の糧(7)
世界選手権からオリンピックまで

旭化成工業株式会社 陸上競技部コーチ
(財)日本陸連 ナショナルチームコーチ
谷 口 浩 美
1991年9月1日
第3回世界陸上選手権
東京大会マラソンゴール
優勝(2時間14分57秒)
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1991年9月1日、朝6時丁度に国立競技場をスタートしました第3回世界陸上選手権大会最終日の男子マラソンは、日本独特の湿度の高い中で行われました。天の利、地の利を活かせた私は、徐々に気温が高くなる中を競技場へとトップで帰ってくることが出来ました。金メダルを獲得する事が出来たのです。
朝8時過ぎにマラソンは終了し、それから長い一日がスタートしました。新聞・雑誌などの各取材を終了した後に、今度はテレビ取材と時間に追われっぱなしの一日でした。
しかし、ここに辿り着くまでには、いろいろな事がありました。一番は、今大会出場の為の選考会となりました'91.2月の東京国際マラソンです。完璧で望んだはずが、一人相撲的なレースをしてしまい後半ズルズルと後退し9位2時間11分55秒でゴール。この時点で、あぁー世界選手権代表は無くなったと思いました。また、延岡に帰る途中に“谷口は年を取ったなぁー”と言われショックでした。
その後は、練習しかないと思い、3月の陸連合宿で朝、午前、午後と3回練習を行い、滅茶苦茶に走り続けました。気持ちの変化と落ち込むのと、逆にこれを覆すには、やってやろうと言う気持ちで表現する事しかなかったからです。
この後、代表決定を頂いて、ここから再スタートとなりました。2月の東京国際マラソン解説者の言葉の中に、谷口選手の優勝した時の気象条件は、気温10度以上の時だけと言うのを聞き、過去12回のマラソン時の気象条件を拾って見ましたら、その通りでした。
1991年9月
世界陸上優勝パレード
すごい人でした。
左から 森下、宗茂、谷口
下に宗猛
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これを転機に、世界選手権までは、緻密なスケジュールを作成し、データ化して望む事にしました。これが幸を奏し、大会当日スタートラインに着いたときは、万全の体調を作り上げることが出来ました。
大会終了後は、全てに置いてVIP待遇となり、自分自身が一番驚いていましたし、その夜は眠れず、翌朝には芝公園の周りをジョギングして帰る途中に、会社に出勤される皆さんが手にしている新聞の一面に、私の写真が載っており、テレ臭く恥ずかしい気持ちもあり顔を下に向けながら走って帰りました。この時から随分と人の目を気にしだすようになりました。
バルセロナオリンピックでは、世界選手権での評価を頂き、早々と出場が決定しました。言うなれば選考会なしに代表となったのです。こうも簡単に代表になったのがいけなかったのか、オリンピックに向けて練習開始とともに、右足人差し指の第二中足骨の疲労骨折を起こしてしまいました。骨折と言いますと最低でも2ヶ月はかかると言われるとおり診断をしてもらった時は、目の前が真っ暗になりました。これで、オリンピック出場は無理だと思ってしまいました。
'92 バルセロナオリンピックマラソン代表者
左から小鴨、谷口、有森、中山、山下、森下
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しかし何とかしたいという思いで、三重県の病院に極秘入院してリハビリと治療に専念。回復を目指しました。この1ヶ月は、オリンピック出場よりも、いかに早く足が治せるかと必死でした。また、身体的能力を落とさないようにと、長さ7メートルのプールで最低でも朝60分、夕方60分と水中歩行訓練を続けました。また、プールの中で2時間30分走をやった時には、不整脈が出てしまい酸素吸入までやる始末で、その間は陸の上を一歩も走れず、本当にこれで大丈夫なのかと不安だらけでした。(今、この当時のスケジュール表を見てみると、良くこんな厳しいトレーニングが出来たものだと他人事のように思えますし、今となってみれば、とても実行出来ない事だと思われます。)約1ヶ月間の入院を終え、今度痛みが出たら、オリンピック出場は無理と言われて退院。それから陸の上でのトレーニングが始まりましたが本番まで30日間しかありませんでした。このような事があり、最終調整練習5000m走をロンドンで行なったのですが、その日は、昼食を食べてから練習までの間、自分でも分かるほど落ち着きが無く、トイレに行くと足が貧乏揺すりみたいに勝手に膝が動くのです。あぁーこれが緊張・プレッシャーなのかなぁーと感じました。
<次回へ続く> |