陸上人生 心の糧(4)
旭化成入社!

旭化成工業株式会社 陸上競技部コーチ
(財)日本陸連 ナショナルチームコーチ
谷 口 浩 美
いよいよ、旭化成に入社ですが、入社までには色々なことがありました。私の希望は、学校の先生でしたので、実業団に行くことは全く考えていませんでした。教員採用試験を受け、落ちていても非常勤講師でもやれればと思っていましたが、高校時代の恩師が当時の旭化成陸上部広島日出国監督にお願いして頂き、教員になれるまでの足掛けで、旭化成入社が決まりました。ですから、入社二年目まで教員採用試験を受験したのですが、一回目は、チームの合宿と重なってしまい受験を断念しなければならないところを、急遽、祖父が危篤状態になってしまいと言う口実で受験しました。また、二回目は、85年2月に別府大分マラソンの優勝を手土産に受験したのですが、競技成績など関係ないですね!これを転機にマラソン旭化成陸上部の選手として頑張っていこうとなったのです。
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旭化成のベスト
メンバー入りへ着々と
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入社当時に戻りますが、入社時の朝練習で歓迎のセレモニーがありました。何かと言いますと、朝練習で違うコースを走るのですが徐々にペースが上がり、最後は試合ペースまでになりますので、全力でもついて行けないくらいですが、でも離れてしまうと道が分からず、必死の思いでガムシャラにくっついて行きます。朝からオーバーヒートです!
午後の練習についても厳しいものがあり、たとえば大学の頃16kmの練習であれば、1km4分ペースで走れば速いなぁーと言う感じでした。ところが、旭化成では練習を積んでいる先輩達は、平気で1km3分ペースで走ってしまう。私には、練習が試合になってしまい、ポイント練習時は、朝から緊張の連続でした。
ある日の練習で気温が高く、練習に寮からグランドまで走って行き、グランドでポイント練習を終了し、また、寮まで走って帰ってくると、玄関に座り込んで30分から1時間動けない状態の時もしばしばありました。
この繰り返しで練習が行われるため、身体への疲労蓄積は早いものでした。1年目の8月初旬に記録会があり、1万mを走ったのですが、300mのグランドで33回左回りに回ったのと、疲労のピークにあった事が原因で次の日には、左足膝を痛めて故障となりました。このような練習が続きやっていけるのかと不安な時期も続きましたが、自分自身の身体の故障が長引かず立ち直れたこと、父母より丈夫な身体を貰った事が大きな要因となっていると思います。

旭化成入社後
社内を回って新聞記事集め!
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また、貧血で苦労した学生時代から、旭化成に入社して寮生活は変わらないのですが、いまだに貧血が再発していないと言うことです。
寮に入ってまず、食事が良くなった事。3度3度温かい食事がとれることに、なんていい食事が出来るのだろうと喜んでいたら、スポーツ選手(陸上と柔道)の寮へ行ってみると、自分の食事と同じ物の他に1品品数が多くついており、がっかりしました(大卒の一般社員とスポーツ選手の寮は別々だったため)。それと、身体が出来上がって安定してきた事も上げられます。
入社と同時に仕事と陸上の両立のため、悩んだ事も多くありました。初めは、工場内の新聞を作っていたのですが、何せ文章が書けない。おまけに工場の設備、専門用語は全く分からない、新聞の期限は来ているの繰り返しで、その上陸上の練習はしなければいけない、その葛藤の繰り返しで、何にポイントが絞られているのかが、自分自身で全くつかめない状態でした。
1年目の正月号を発行するのに、企画から準備していました。まだ全日本実業団駅伝が12月開催だった頃、開会式で選手宣誓をする事になりました。最後の日付を言うところで、正月号の新聞のことばかり、頭の中にあったものですから、次の年の年月日を堂々と言ってしまったのです。自分は、全く気づかなかったのですが、現在鐘紡監督の伊藤さんに指摘され“明日おまえはブレーキするな”と言われ、伊藤さんと同じ三区を走った私は、予告通り後ろから来た、伊藤さんに抜かれてしまいました。新人いびりだったのでしょうか!いや、私の実力が無かったのでしょう!

ヘルメット片手にいざ現場へ!
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新聞作りは、大会が終了してから、延岡に帰り数日間、徹夜の状態で作り上げました。と言っても、朝はちゃんと6時には朝練習に参加していました。このような事が起きてからは、絶対に強くならないといけないと思いました。強くなれば陸連合宿を始め、社外に出ていくことが多くなり仕事をしなくてもすむのではと、簡単に考えたものです!
現実逃避が私を強くしてくれたのでしょうか!
<次回へ続く> |