陸上人生 心の糧(1)

旭化成工業株式会社 陸上競技部コーチ
(財)日本陸連 ナショナルチームコーチ
谷口 浩美
こんにちは、今回「スポーツと私」としてスポーツにおけるアクシデントについてお話をさせて頂くことになりました、旭化成陸上部コーチの谷口浩美です。宜しくお願い致します。
さて、第一回目の今回は、私が陸上競技を始めた頃からの事にふれながら紹介させて頂ければと思います。と言いましても、今、改めて考えてみても何がアクシデントだったのか、と分からない部分が多いように思えます。自分自身にアクシデントと捕らえる能力が欠けていたのかも知れません。また、アクシデントと言うよりは昔風の、出来なければ"根性がない"あるいは"そんなもの鍛えて治せ"と言う時代だったのかも知れません。
私の陸上競技との出会いは、あまりハッキリしません。小学生の頃、冬の体育の時間で持久走があり、また学内以外でも持久走大会があると小学校1年生の頃から進んで参加していました。そして走り出して気が付いたら周りに誰もいなくて、みんなどうしたのだろう!と言うような感じでした。小学校高学年になると、勝負をしながらのレースになりましたが、小学校5年生の時に3位になっただけで、後の学年はすべて1位でしたので長距離走に向いていたのかもしれません。
中学校に入ると小学校時代の実績からか、半ば強制的に気が付いたら駅伝部に入部していました(当時私の通った中学では陸上部と言わず駅伝部と言い陸上部は陸上部で存在していました)。
中学校1年生の頃は、毎日練習する事が大変で、どうやったら休めるかを考えるのに必死でした。陸上を真剣にと言うよりは、自分の親から貰った遺伝をただ出していただけのようでした。1年生で初めて出場した大会は当時の放送陸上だったと思いますが、南郷から汽車に乗って2時間かけ、宮崎市内の競技場へ行ったのですが、汽車に酔ってしまったのと同時にのぼせたのでしょう、鼻血が出て止まらず、800mスタート前まで木陰で休んでいて出場でした。結果は、暑さにまいった事も原因にあげられますが、デビュー戦にしてはお粗末でした。また、陸上競技、長距離も分からないままにスタートとなった訳です。それからは夏場での合宿が一番大変でした。暑い中での練習、今でこそ水分補給をしながらでないと駄目だと言われていますが、当時はのどが乾いても"ジッと我慢の子"の状態で脱水症状が原因で倒れる選手も多くいました。現在も倒れる選手はいますが、当時の方が暑さに強い選手が多くいたようにも思えます。
脱水症状にふれましたので別の例を一つ。脱水症状の起こりやすい状況は、蒸し暑かったり、水分補給ができなかったり、あるいは、水分は補給しているのに身体、胃腸の状態が悪く、身体の機能が低下しているときなどに見られます。高校生の合宿時に、上記の条件で練習が行われ、ある選手が、脱水症状と熱中症が重なり、練習最中のゴール寸前にフラ〜フラ〜となってしまい、意識が朦朧となってしまいました。それからが大変でした。全身ケイレンを起こすものですから皆で押さえて、暴れるのを阻止しようとすると、本人は又ケイレンで痛がって暴れることの繰り返しでした。この時は、氷で冷やした水を飲ませたのですが、身体機能が低下しているので胃腸がうけつけず、吐き戻してしまう状態で収まりがつきませんでした。
その後、病院に連れて行ったのですが、医師の処置と指示は、担架に乗せた選手の身体の上に氷を乗せ、それにホースで水をどんどんかけて身体を冷やせと言うことでした。この指示通り処置した結果、選手もようやく落ち着きましたが、点滴をしなければならない状態でした。処置の終了後には、監督、その他関係者は、医師に随分と説教をされました。処置の仕方で、生きるも死ぬも紙一重になるのですね!危険な種目ですね!
あと同様に、インターハイ時期に沖縄県で大会が開催され、5000mで熱中症、脱水症状となった選手の処置の仕方で参考になったのは、リンパを氷で冷やすと言うことでした。脇の下、股間などを氷で冷やす事で、冷えた血液が全身にまわり回復も早いと言う事です。応急処置を自分でできることも大変重要なことです。経験が無ければただおどおどするだけで何も出来ないと言うことになります。
中学時代は、トレーニングもあまりハードではなかったので、故障などに悩まされる事は、少なかったように思います。しかし、1年生の時は、県中学駅伝大会に出場出来たのですが、2年3年と地区大会で負けてしまい、県大会に出場する事が出来ませんでした。チームでの勝負で1人欠けると勝てない駅伝の難しさを教えられました。この時は、大会に行けなくて大泣きしたのを覚えています。その時に、担任だった先生が「この分は、高校に行ってから取り戻しなさい」と言ってくれたので、スッキリして泣くのを止めたことが今は懐かしい思い出です。
<次回へ続く> |