市教育委員会主催の水泳教室に
参加した主婦の死亡事故

 

事前の健康診断の必要性

▼ 事故と裁判の概要

 昭和51年8月8日、主婦A(38歳)は、Y1県教育委員会およびY2市教育委員会が市立小学校プールで共同主催した「泳げない人の水泳教室」に参加して水泳練習中、午前9時45分頃、水中に沈んでいるところを発見され、指導員らによって引き揚げられ人工呼吸を受けたが、蘇生することなく同日死亡した。
 遺族Xらは、事故は主催者の注意義務違反によるものであるとして、Y1県およびY2市に対して損害賠償を請求した。
 裁判所は注意義務違反はなかったとして、請求棄却の判決をした。
(浦和地裁 昭和60年7月19日判決)
▼ 本件事故発生前のAの健康状態

 Aは高血圧のため昭和50年9月19日から同年12月25日まで前後7回にわたって内科医院で診療治療を受け、次の事実が認められる。
1.内科医院で治療を受けた当時、Aの血圧は、昭和50年9月20日で最大186mmHg、最小100mmHgと高い値を示して、ほぼ同様の状態が同年12月に至っても続き、同月4日で最大186mmHgであったが、同月25日には最大166mmHg、最小86mmHgとなった。しかし、同日以降、Aは同医院に通院しなくなった。
2.本件水泳教室の開始日合計6日間のうち、Aが出席したのは、昭和51年7月24日、同月25日、8月8日の3日間だけであり、7月31日、8月1日、8月7日の3日間は欠席している。
3.本件水泳教室において、Aと顔見知りになった友人が本件事故当日、Aに対し欠席した理由を尋ねたところ、Aは1日は娘と外出し、他の2日は調子が悪かったためであり、今日は最終日だから来た旨答えた。
4.また、本件事故直前にAが本件プールの13mの往路を泳いだあと、友人がAに対して頭が痛いと言ったところ、Aも調子が悪いと答えた。
5.以上の事実によれば、Aの血圧は事故発生の前年である昭和50年9月頃から12月頃まで通常人のそれと比べ非常に高く、治療を要する状態であったこと、本件水泳教室に参加した当時、Aの体調がすぐれず水泳教室を数日欠席していること、本件事故当日もAの体調が良好とはいえない状態にあったことが認められる。
▼ 事故発生の状況

1.本件水泳教室の最終日である本件事故発生当日、両教育委員会は、Aを含む受講生20名に対し、Y3、Y4を講師とし、被告市の体育指導委員4名を指導者、被告市の教育委員会保健体育課職員を監視員として水泳練習の指導をしたが、練習開始に先立ち、講師らが事故を未然に防止するための諸注意を与え、健康状態の悪い人はプールに入らないよう指示したところ、2名が身体の不調を訴えて練習を見学することになり、結局、当日の練習は18名の受講者で行われることになった。
2.講師らは、本件水泳教室において、受講者をその水泳能力に応じて組分けし、各組ごとに指導する方針をとっていたが、本件事故当日も18名の受講者を、その能力に応じて、上級、中級、初級の3グループに分け、Aは6名くらいからなる初級グループに所属することになった。
3.本件事故当日の本件プール付近の講習時の天気は晴れ、湿度は73%、水温は摂氏27度、気温は午前9時で摂氏25.5度、午前10時で摂氏26.5度、風速は毎秒0mであった。
4.本件プールは、縦25m・横13m、水深は左右両端から中央部に向かうに従って徐々に深くなり、満水時において左右両端部分で1m弱、中央部分で1.2mの規模の小学生用プールであった。
5.本件事故当日、講師らは右プールを縦に3等分して小学校校庭に向かって右、中、左の3区画に分け、初級グループは縦8m余り、横13m、水深1m前後の右区画を割り当てられて練習することになった。
 そして同グループには指導および監視のため、指導者Y3、Y4およびY3の子であるY5の3名が配置された。
 また、Y3は本件プール内において中級および初級グループ間を移動しながら指導にあたり、プールサイドでは、保健体育課職員が全受講生のため監視にあたっていた。
6.午前9時15分頃、当日の練習が開始され、まず受講者全員で準備体操を10分間ほど行ってシャワーを浴び、次いで3グループに分かれて全員がプールサイドに腰をかけ、足を水中に入れてキックおよび身体をプールの中に入れ、手をプールサイドにかけてバタ足をする壁キックを10分間ほど行ったあと、初級グループは前記右側区画部分において1名ずつプールを横断して泳いでみるよう指示された。
 初級グループのうち、Aら3、4名の者は、当初1人で泳ぐことをためらっていたが、Y5から思い切って泳いでみるように促されて右側区画を横断して往復する練習を始めることにした。
 Aは、往路を泳ぎ切って校舎と反対側のプールサイドにたどり着き、折り返し復路を泳ぎ出したが、泳ぎ終わる直前の午前9時45分頃、校舎側プールサイドにあと約2mに近づいた付近で手中に沈んだ。
 水没するに際し、Aが異常に激しい水しぶきを上げても、もがいたり助けを求めたりした形跡はなく、沈むところを目撃した人はいなかった。
▼ 教育委員会および担当職員、指導監視員の過失の有無

1.健康診断等の義務
 水泳が各種スポーツの中でも最も運動量が大きいものの一つで、身体の呼吸器系、循環器系の器官に大きな負担を与え、また、常に溺死の危険を伴うものであることに鑑みれば、水泳教室の実施にあたっては、事前に健康診断等により、参加者の健康状態が水泳に適しているか否かについて、可及的多くの項目にわたって厳密に調査しておくことが望ましいことはいうまでもない。
 しかしながら、本件水泳教室は、市内在住勤の18歳以上の社会人を対象とし、社会教育活動の一環として行われているものである。社会人を対象とする健康診断は、学校における児童・生徒に対する集団検診の場合と異なり、事前に対象者全員の参加を求めて健康診断等の必要性の周知徹底を図ったり、健康診断を実施したりすることは一般的に困難な場合が多く、また、受講者の年齢等に鑑みれば、これらの人々は、各自が事故の健康状態と水泳のもつ危険性について、認識し、判断する能力を有しているものといえる。
 さらに、健康診断等は水泳不適格者を発見し事故の発生を未然に防止するための唯一の方法ではなく、受講者に対し、健康状態に関する十分な注意を与え、体調の悪い人は泳がないように注意することによって危険の発生を相当程度防止することができるものであり、講師らが練習開始前に毎回健康状態および水泳練習についての注意を与え、本件事故当日も、Aを含む受講者全員に対し、健康状態の悪い人はプールに入らないように、またプールに入っていて気分が悪くなった場合には直ちにプールから上がるように注意していたのである。そして、受講者は、本件水泳教室において健康診断等が行われないことを案内初等により知り得たのであり、自己の自由意志により参加したものであるから、健康状態に不安のある人は自主的に医師の診断を受けるべきであったのである。加えて、民間で行われている有料の水泳教室および地方公共団体が開設し使用料を徴収している公営プールにおいても、参加者または入場者に対し、健康診断等が行われていないことは公知の事実である。
 以上述べたところを総合すると、本件のような地方公共団体による無料の、しかも18歳以上の社会人を対象とする自由参加の水泳教室において、主催者ないし担当職員、指導監視員に健康診断等を実施する義務があるということができない。

2.人員の配置、監視体制
 本件水泳教室の講師であるY3は、日本赤十字社水上安全救助員の資格を有し、W市主催の水泳教室およびO市所在のスイミングスクール等で10年以上の水泳指導の経験があること、同じく講師であるY4は、日本水泳連盟公認指導員の資格を有すること、またY5も、本件事故当時、高等学校水泳部に所属し、O市所在のスイミングスクールで3、4年の間指導した経験があり、水難救助面で日本水泳連盟公認の資格を有することが認められ、これら講師および指導らの資格および能力、さらにはプールサイドには保健体育課職員が控えて受講者全員を監視していたことを併せて考えると、本件水泳教室においては、事故を防止するうえで十分な人員が配置されていたものというべきである。

3.事故の発見と救助体制
 Aが手中に沈んでいく瞬間を目撃した人がいなかったことについては、Aがもがいたり大声で救助を求めるなどの異常行動をした形跡がなく、突然の急性心不全によって死亡したことからすれば、やむを得なかったものというべきである。そして、この状況下で、水中に浮かんでいたAの発見状況についての諸事実、なかんずく、同グループの友人の言動からすれば、Aは急性心不全を起こして水中に沈んだ後早期に発見されたのであり、かつ、発見後はY3らが直ちにAを水中から引き揚げ、迅速に人工呼吸、心臓マッサージを施し、救急車および医師の手配を遅滞なく行っているのであるから、発見救助体制の点で、講師らおよび担当職員に過失があったものとは認められない。

▼ 本件事故の教訓

1.20年以上前の事故であるが、事故防止の上からは重要な判決として参考にすべき判例である。
2.呼吸器、循環器系の事故防止については、事前に専門医の診断を要求することも必要である。
3.主催者は、診断書を提出させるまでの必要はないが、参加申込書等に警告しておく必要がある。