私たちは子供たちをどう見ているか
筑波大学 体育科学系 講師 三木ひろみ
まずは自動的に大枠で見てしまう。
自分が人のことをどのように見ているかということを意識したことがありますか。ぱっと人を見て、その人が女性か男性か、おとなか子どもか、若いか年をとっているかといったことは、意識しなくても自動的にすぐに分かってしまいます。自動的にそしてすぐに分かってしまうと、相手に対して何らかの関心があるのでなければ、「本当に子どもなのか」、「どんな子どもなんだろう」などということを考えたり、確認したりすることはありません。関心もかかわりもなければ、その子どものことを知らなくても、普通子どもはこういうものだという一般的知識だけで対処しても困ることはないでしょう。それに、人間の精神的エネルギーには限界がありますから、人に会うたびにじっくりその人を見たりその人のことを考えたりしていたのではもちません。人間はこのように、必要がなければ、自動的に必要最小限の注意だけ向けて、大枠で人を捉えるようになっています。相手のことをもっと理解したいと思ったり、関心を持つようになってから、意識して相手に注意を向けるようになるのです。
意識しても白紙の状態から相手を理解することができない。
意識して相手に注意を向け始めた時に、覚えておかなければならないことは、すでにそうして意識する以前に自分は自動的に相手を何らかの枠組みに当てはめて捉えてしまっているんだということです。相手を最初から白紙の状態で見るということはできないということです。相手を子どもだと、女の子、男の子だと思っているところから出発していて、(女の子にしては)腕っ節が強い、(子どもの割には)なかなかセンスがいい、というように認識することになります。最初に自動的に当てはめた枠組みが、女の子ではなくて男の子だったら、子どもでなくておとなだったら、別の認識を持ったかもしれないということです。
もっともっと注意を向けてその子を個人として見る。
(子どもにしては)センスがいい、(でも、子どもなだけに)集中力がない、(ただ、こどもだから)コーチが強く言えば素直に聞く、…。意識して相手に注意を向けて、いろいろなことが分かってくると、最初に自動的に当てはめた大枠(子ども)が役に立たなくなったり不適切になってきたりします。そうなると、(子どもだから)、(子どもなのに)というように参照することがなくなり、分かってきた様々な特徴から、この子(個人)はどんな子なんだろうと捉えようとします。「いい子」「うまい子」というように単純にまとめあげられない様々な特徴を一人の子どもの中に見出せるようになるにつれて、その子を個人として理解できるようになります。
見え方は、動機や目的に左右される。
相手を理解しようと意識して注意を向けることによって、初めて自動的に大枠に当てはめる捉え方から一歩先に進むことになります。言い換えると、余裕がなくて相手に十分注意を向けることができなければ、相手を一人の個人として把握できないということです。理解したいなら、余裕を持って十分注意を向けることです。捉え方や見え方は、動機や目的にも左右されます。大勢いるメンバーの中からレギュラーを選ばなければならない状況と、数少ないメンバーで戦わなければならないのに、敗戦続きでメンバー全員が意気消沈している場合とでは、子どもたちの練習を見る目は違ってきます。前者の場合、特に傑出したプレイをしている者はいないかを見ようとし、後者の場合は少しでも褒めることができるプレイはないかという視点で見ていることでしょう。特定の目的や動機を持って見ることは決して悪いことではありません。気をつけなければならないことは、子どもたちを見ている自分がどのような目的や動機を持っているか、自分は分かっているかということです。子どもたちはこういう状態だ、とだけ思っていませんか。そう見える自分は、子どもたちをどう見ようとしているでしょうか。